とある法学部生の日常

都内の某大学に通う法学部生の拙いブログです。専ら2023年度 行政書士試験について書いております。

#12 勉強に対する価値観の変化

押忍。アクセス数の10割を自分が稼いでいる現実を受け止めたくない法学部生です。

 

今日は、行政書士試験の話というより、試験勉強を通して変化した価値観についての話をしたいと思います。ひどく抽象的なテーマですが、自分で気づいた時に驚いた変化を共有したかったので書いていきます。

 

まず私は今大学3年生ですが、恥ずかしながら真面目に勉強に取り組んだのは大学の受験期が初めてでした。それまで公立の小中を友達と遊び勉強は宿題のみ、という生活でした。国語は得意で、小学生の頃に書いた標語が冊子に掲載されたり、漢字の読み書きもできる方だったと思います。ただ、中学に進むと定期考査が始まりそこで初めて「テスト勉強」という概念が出てきます。それまで何となく国語だけ得意だった人が、他の苦手な科目の勉強を意識的にしなければいけないというのは苦痛でした。親は勉強しろとうるさいし、それでは、やる気も全く乗りませんでした。

 

完全に勉強のことを「自分を拘束する行為」であると考えていたためです。友達と遊んでいた方がもちろん楽しいですからね。そのため定期考査の点数はあまり伸びず、常に平均点を取り続けていました。また、私は高校受験は直前に先生に勧められた「一般推薦」で受かったため、受験勉強をろくにしないまま、家から近かった偏差値50程度の公立高校に進みました。面接と小論文のみの試験だったので、算数や理科などのテストは一切受けませんでした。そのため勉強の重要さに気付かないまま、高校生になっていきます。

 

高校でも相変わらずテスト勉強は億劫で、成績も悪かったです。小中の友達とも離れ、友達も多く作れなかった自分は、孤独に家でゲームばっかりしてました、だいぶ悲しいですね。

 

そして時は進み高三になると、周りは一気に受験モードに入り教室の雰囲気が一変したのが記憶に新しいです。初めてしっかり自主的に勉強に取り組んだのは、この頃だったかもしれません。自分もその雰囲気に流され「大学受験」というワードが常に頭で暮らしていて色々と窮屈でした。

自分は私立大学を目指していたので世界史・英語・国語の三科目を勉強しました。特に世界史を勉強するのが好きで、次々と新しい情報を吸収できるのが楽しくて、少しだけ勉強に目覚めました。すると今まではクラス内で平凡かそれ以下だったテストの点数はみるみると伸びていき、気付けば英語と世界史のテストはクラスでほぼ毎回1位になっていました。ただ、やはり「受験に落ちたらどうしよう」などの不安は常に付きまとっていて、変わらず窮屈なままでした。

結局、第1志望だった大学群の1つに何とか合格するわけですが、受験終わりの開放感はまた味わってみたいと思うほど心地よいものだったなと今も感じます。前置き長すぎますが本題はここからです。

 

大学に入ると、就職という目標はあるものの高校とは打って変わって大変自由な学び場が広がっており、より能動的な姿勢が求められるようになりました。実際、その雰囲気に圧倒されていたのか、大学の講義に付いていけず1年の前期は成績が最悪でした。それでも何とか後期から立て直し今に至ります。そして、遂に自分の勉強に対する価値観を変えた行政書士試験と出会います。

 

大学受験も言わば進路のために半ば強制的に勉強していたといえるので、自分で決断して勉強をしたのは初めてでした。

ドライなテキストとの睨めっこ、はじめは買ったテキストを開くのが億劫でしたが、いざ勉強してみると沼にハマってしまいます。かつての世界史のように次々と新しい情報が見について行く快感、己で取得を決断した資格勉強のモチベーションは高水準を保ち、今では勉強が楽しいと思うことができます。

 

では何が変わったか。それは勉強に対して今までは「自分を拘束する行為」と思っていたのが「自分を解放する行為」という捉え方をするようになりました。180度変わっています。

勉強は自分を拘束して遊びの時間を減らす行為だという稚拙な考え方がこれまで20年間も自分の足を引っ張っていたと思うと嫌になりますが、今からでも取り返してみせます。勉強は本来、自己実現の方法であるということに、ようやく気がついたんです。自分の将来のために学力を担保するという意義もあるでしょう。

 

これに気付くには遅すぎたかもしれませんが、まだ20歳のうちに気づけて良かったと思います。

今までの遅れを取り返すべく、私は今日も勉強をしていました。

 

 

-----------

殴り書きしたので見返すと酷い文章ですね、たくさん本を読まなければ…では。